足立堀之内公園の大賀蓮は見頃を過ぎていました2025

「2000年の時を超えて咲く花って、どんな表情をしているんだろう?」

そんな思いが心に浮かび、足立区にある足立堀之内公園を訪れました。
その目的は、「大賀蓮(おおがはす)」という特別な蓮の花を写真におさめることです。

この日は、朝から曇り空。直射日光こそないものの、風がなく、湿度が高くてムシムシとしており、静かにしていてもじわりと汗がにじんでくるような天気でした。

最初に訪れたのは葛飾区にある水元公園でした。
蓮の花の撮影を終え、金町駅から常磐線に乗って亀有駅へ。
駅の北口からバスに揺られ、足立堀之内公園に向かいました。
水元公園では暑さで少しフラフラになっていたのですが、電車やバスの冷房が心地よく、体も少しずつ元気を取り戻しました。

公園に到着したのは午前11時ごろ。
蓮の花は朝に咲いて昼には閉じてしまう性質があるため、ちょうど微妙な時間でした。
実際、池の蓮たちはほとんどが静かに花を閉じており、その姿はまるで眠っているようでした。

ここの蓮は「大賀蓮」という種類です。
1951年に千葉県の遺跡から発掘された2000年前の蓮の実が、現代によみがえったという奇跡の花。
その生命の力には、ただただ驚かされます。

大賀蓮の花は、一般的な蓮よりもやや小ぶりで、花びらがとても繊細。
風がない曇りの日は、花のディテールをしっかりと写せるチャンスです。

今回の訪問では、花びらを落とした蓮も多く、見頃のピークは過ぎていたようでした。
ですが、咲き終わったあとの姿もまた、美しさがあります。
花が終わることは「さよなら」ではなく、次の命へとつなぐ準備。そんな風に思えるようになったのは、花と向き合うようになってからかもしれません。

来年は、もう1週間早く訪れてみようと思います。
花に合わせてスケジュールを組む旅は、自然との対話のようでもあり、心が豊かになります。

足立堀之内公園は、小さな街の中にある、静かな場所です。
蓮池もコンパクトで、株の数も決して多くはありません。
でもその分、ひとつひとつの花に心を向けられる、優しい時間が流れていました。

蓮の花は、泥の中から生まれ、まっすぐ空に向かって咲きます。
濁った水の中でも美しく咲くその姿は、まるで人の生き方を表しているようです。

今回の旅で私は、花を撮ることは「記録」ではなく、「心の対話」だとあらためて感じました。
そして、旅とはただ移動することではなく、その土地や自然とのつながりを感じることでもあるのだと思います。

もし、あなたが少し疲れていたり、静かな場所に行きたいと思っていたら、
ぜひ、蓮の花に会いに行ってみてください。

そして、カメラやスマートフォンを持って、そっとその姿を写してみてください。
そこには、今の自分に必要な「気づき」や「やさしさ」が、きっとあるはずです。

さて、ここからは少しだけ余談──いや、正直に言えば「残念な話」です。
公園に到着したとき、池のまわりにはたくさんのご年配の方々が集まっていました。
地域の集まりなのか、和やかな雰囲気。でも、そのすぐ近くで、少し気になる光景が目に入りました。

池の周りには柵が設けられ、「立ち入り禁止」といった注意書きもしっかりと掲げられていました。
ところがその中に、小学生くらいの男の子が二人、網を持って池をかき回していたのです。何かを捕ろうとしている様子でした。
おそらくは高学年でしょうか。興味を持つ気持ちはわかります。でも、そこは入ってはいけない場所。
私は声をかけようか一瞬迷いましたが、着いたばかりで自分の気持ちを崩したくなかったこともあり、しばらく様子を見ていました。
近くにいた大人たちも、気づいていないのか、それとも「まあいいか」と思っているのか、何も言う気配はありませんでした。

実は注意したいのは、「池に入っていること」そのものよりも、もっと大切なことです。

その場では、何人かの方がスマートフォンを構え、水車や池の景色を撮影していました。
特に目立っていたのは、ご年配の方々の姿です。
それ自体はまったく悪いことではありません。むしろ素敵な思い出になるでしょう。
ですが、その写真や動画に「立ち入り禁止の場所で遊んでいる子どもたち」が無意識に写り込んでいたとしたら、どうなるでしょうか?

もしその画像や動画がSNSに投稿されたとき、そこに悪意ある第三者がいたら──。
「これは通報案件だ」「子どもが危ないことをしている」と、拡散されてしまう可能性もあります。

私が子どもだった頃は、もし何か悪さをしたとしても、それが知られるのはせいぜい近所の「お母さんネットワーク」まで。
それでも十分こわいものでしたが、今はスマホとSNSの時代です。
ちょっとした出来事が、世界中に拡がってしまう可能性すらある。
だからこそ、公共の場では「誰かが見ている」「誰かが記録している」ことを前提に、行動には気をつけなければならない時代になっているのだと思います。

だいたい落ち着いてきたので、「よっしゃぁ~」と思った瞬間、このような光景が・・・
「ありえへん、ホンマ、ありえへん」
大人と子どもを同時に注意しなければならないのですか?
いやいや、この状態で子供に注意はしずらい。
いやもっと、早くこの人がいる前で子どもたちを注意していれば、この状況は防げていたのか?
結局、気持ちを切り替えることができないまま、撮影はどこか寂しさの残る時間となってしまいました。

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